病気の人は羨ましい
病気の人が羨ましくて仕方がないときが少なくありません。
例えば、病気の人は学校に行かなくても悪いと思われない、とか。
小学生かよって感じですけど、流石に否定もできません。
病気だったり不幸な人だったりっていうのは赤の他人から見ると、それがどんなに辛い体験だったとしてもそれを耐えるだけで済むから楽なようにみえるんですよ。
何というか、生まれた時点から目的が与えられているような、そんな風に見えてしまうんです。
目的ってどうやったら手に入るんでしょうか。
無気力な学生の大学受験記②
お久しぶりです。
有言実行ならぬ、有言不実行実行ということで、かなり更新をサボりがちになってきました。
進展がありましたので書いておこうと思います。
今日、半年以上話をしていない親と担任を交えて三者面談を行いました。
2時間におよぶ長丁場、私は日頃より2時間何もしないというのが普通なので特に何も思いませんでしたが、母と担任は相当に応えたようです。
さて、自分を悪人だと自覚していて、罰を受ける覚悟のある犯罪者に私たちは…あるいはあなたたちは犯罪を行わないよう論理的に説き伏せることができないというのは周知の事実ですが、私もいよいよ切羽詰まってきたのでその手を使うことにしました。
というよりはもともとそのスタンスではあったのですが、明確に口にしたのは初めてです。
一応書きますけれど、私は別に犯罪を犯した訳ではありません。
つまり面談で話した内容に関わることという訳なのですが、この話は私が何をしたいのか尋ねられた際に、口を滑らせて、私は何もしたくないと回答したことに起因します。
「そんなこと言ったっていつまでも親の世話になるわけにはいかないでしょう」
「そうですね」
「親だっていつまでも何もしない子供を育てたいと思うわけがあると思いますか?」
「その時は捨てるんじゃないですかね」
「それでいいんですか?」
「まぁ、自業自得なので」
という具合です。
なんだこいつ、ゴミだなと書いてても思いますが、人によく思われたいという気もないので結局こういうことを言ってしまいます。
子供の頃はニートは社会のクズだと思っていた時期もありましたが、今となっては、なるほどニートになるのは私のような人間だったと確信を持っていえます。
身の程を知って、開き直るのが早すぎて、そして理想と意志と目的を失った人間は一体何をするべきなのか。
野垂れ死ぬのが一番マシなのかもしれません。
失敗すると殺される
頻度が下がってきました。
閉鎖の危機です。
さて、最近思うこととして、私たち無気力人は何か失敗するのが怖いという心理に支配されているのではないかということです。
今この記事を書いている時でさえ、誰かがこの記事を見て「なんだこいつ、くっさ」とか思われないか不安で仕方ありません。
しかしながら失敗に対する恐怖はそう簡単に否定できるものでもなく、どうしようもないというのが私の考えです。
失敗が怖いのは自分が本当は才能に溢れている人間だと思い込んでいるからという意見はもっともだとは思いますが、一方で失敗に対して厳しい人が社会に多いのもまた事実です。
失敗はして当然だということを私が受け入れるにはどうしたらいいのでしょうか。
何やら自分語りブログに成り下がっている感がしてきましたが、知識のない学生にはこれが限界であるというほかないでしょうし、これもまた欠点を欠点として晒せるようになるための練習だということにして、今日はとりあえず終わります。
ありとあらゆる憂鬱を濃縮し具現化した現代アート的構造物、日曜日
日曜日の夜というのはこの世のほとんどの人にとって憂鬱なものでしょうが、私のような無気力にとってはよりメランコリーを煽られるものです。
具体的な話をするなら、服をあまり洗えていないせいで明日着る服がない、とか、夜更かししているので明日の日中が楽しくなるはずがない、とか。
普通ならそこで来週はそうならないようにしようとなるのでしょうが、私はそうはならないようです。
基本的に私の無気力には何か嫌なことがあったときにそれを改善するのではなく、嫌なまま放って置いてしまうという性質があります。
生活を改善するということに全くの魅力を覚えないとなると、この世のほとんどのことはする必要のないことになります。
目的を持つというのはどうしてこれほど難しいのでしょうか。
無気力な若者の大学受験記①
どうせならシリーズものが何か欲しいかなと思いまして、寝れないついでに書いていこうと思います。
高3ということで今年は一般的には大学受験になる訳ですが、何をするにもモチベーションが湧かないというのが私の現状です。
少なくとも大学受験という観点から見るならば私はスタートにも立っていないと言えるでしょう。
6月にして自宅学習0時間、塾なしのぺんの未来に乞うご期待!!といったところでしょうか。
先の記事で書いた選択の一つはもう近づいているといっても過言ではないでしょう。
まだ大学に行くかどうかも決まった訳ではありませんし、何ならこのままニートになる可能性もない訳じゃない…というより相当あります。
なんだか、何のために大学に入るとか、大学そのものの魅力とかがよく理解できなくて、じゃあ消極的にネームバリューで決めるかといったところで、それに対してとくに思い入れが湧かないんですよね。
今努力しないがために将来苦労するかもしれないということに恐怖も何も覚えないというのが、よくないのかもしれません。
受験勉強するくらいなら別にのたれ死んでもいいのかなとか思ってしまっている私がいます。
他人事視点で「どうなることやら」と傍観する一生になる気がしてならないなぁ…
更新頻度が高いのは三日坊主の予兆
こんばんは。
無気力の私が気まぐれでこのようなことを始めると、大抵2日3日異常に更新したりしてやめてしまいます。
完全な無気力というやつと私は違う何かなのかもしれません。
3:00代にこの記事を書いているということでまぁ不眠体質であることはおおよそばれているのかなと思いますが、実は睡眠というのはそこそこに面倒なことだったりします。
ここまで拗らせるといよいよ死というものが視野に入ってくるわけですが、いかんせん、死ぬのもかなりの意志力を要求されるわけです。
睡眠以外にも、食事だったり結構いろいろサボったりしていますが、じゃあ死ぬまでサボり続けるのかといえばそうでもなく、本能に逆らうほどに強く何もしたくないと思っている訳ではないというのがまたタチの悪いところです。
いずれにせよいつかは選択を迫られることになる訳ですが、いやはや、自由の刑に処されているとはよくいったものです。
楽に死ねるのであればそれも悪くないかなとは思いますけれど、当分先の話にはなりそうですね。
意志というものへの謎は深まるばかりです。
方針
何もしたくないということを常日頃より、予々常々思っています。
しかしながら世間の何もしたくないという人々に対する風当たりは厳しいものです。
何もしたくない人々は世間に対しても特に何もしないので、そういった風当たりは原理的に改善されることはないと言えるでしょう。
勿論私はじめ無気力な人々はそれさえ甘んじて受け入れようというスタンスではあるのですけれど、現代がそれをあまりに許容していなさ過ぎると私が思うのもまた事実です。
このブログはそんな、サイレントな人々の存在しえない意志と目的をでっち上げ、独断と偏見とともに撒き散らすために作られたブログです。